町内の帰還困難区域に残る熊町小学校、熊町幼稚園、熊町児童館が2月2日から4日の3日間、当時の在校生や在園児らに開放されました。
3施設は避難指示区域内にあるため容易に立ち入りができませんでした。震災当時のまま約13年が経過し、施設の老朽化が際立ってきたため、町は安全面を考慮し、施設を開放して残された私物を持ち出してもらうことにしました。
震災時は、熊町小学校に約330人、熊町幼稚園に約160人が在籍していました。開放期間中、当時の在校生や在園児、教職員、保護者ら約260人が訪れ、約13年ぶりに思い出の品や教室、旧友との再会を果たしました。
2月2日、熊町小学校を訪れた当時3年2組の武内優貴さんは、教室の机に置いたままだった自分のランドセルと対面しました。武内さんはランドセルを開けると、当時のことを思い出しながら、中に入っていた学用品を一つずつ手に取って確かめました。
(写真)約13年ぶりに母校へ登校した当時の在校生が、校舎に残したままだったランドセルと再会しました。
震災当日、地震が起きたときは1階の教室にいて、裸足で窓から校庭に飛び出したという武内さん。教室に残したままのランドセルが気になっていたと話します。
武内さんは、書き込みが多い自主学習のノートをめくり、「目標1万ページといって自主学習を一生懸命やっていた記憶がある。クラス内でページ数を競い、2月は1位だった」と話し、教室の壁に貼られた順位表にある自分の名前を見て当時を懐かしみました。
続いて教室を見渡し「懐かしい同級生の名前ばかり。みんなと一緒にやった緑化活動の花植えが楽しかった。自然の中でたくさん遊ぶところがある良い学校だった」と振り返りました。 避難後、会津若松市で再開した熊町小学校に通った武内さんは「震災後、同級生が転校などでだんだん減って寂しかったが、今日は震災前の楽しかったことを思い出せた」と笑顔で話し、思い出がつまったランドセルなどを持ち帰りました。
震災当時、小学1年生だった次女の汐凪さんを津波で亡くした木村紀夫さんは2月3日、長女の舞雪さんとともに熊町小学校を訪れました。
(写真)木村汐凪さんの机の前に立つ父の紀夫さん(左)と姉の舞雪さん(右)
2人は、1年2組の教室にある汐凪さんの名前が書かれた机の前で、机の上に置いてある汐凪さんが描いた絵や図書室から借りていた絵本を見つめ、汐凪さんに思いを寄せました。自宅を津波で失った木村さんは「この教室は汐凪の生きていたことがわかる場所。ここにある方が汐凪を感じられるので、荷物は持ち出さず、当時の生活を想像できるようにしておきたい」と話しました。
同日、汐凪さんの同級生だった川木陸真さんが教室を訪れました。教室では、川木さんは汐凪さんの前の席に座っていました。汐凪さんのことを「明るくて優しい子だった」と話す川木さんは、「汐凪さんに」と木村さんへお菓子の包みを渡しました。 震災の前月、汐凪さんはバレンタインデーに同級生へチョコレートを配っており、川木さんもそれを受け取っていました。翌月のホワイトデーにお返しをするつもりだった川木さん。「ずっと心残りだったが、やっと渡すことができた」と話しました。
(写真)木村さんにお菓子を渡した川木さん(左)
川木さんの他にも汐凪さんの同級生と出会った木村さんは「今回、汐凪を覚えていてくれる人たちと会えてよかった」と喜びました。また、自身の語り部活動の際、町を案内した学生から「原発構内の見学よりも熊町小学校を見た方が原発事故を自分ごとに感じる」と言われた経験から「汐凪を忘れないためにも、震災と原発事故の経験を語り継ぐためにも、ここを原子力災害の遺構として残してもらえたらありがたい」と話しました。
(写真左)母校を訪れる元在校生ら。昇降口の上にある時計は震災時に止まったままです。
(写真右)教室で自分のランドセルを見つけた当時の1年生。入学時に付けた鮮やかな黄色のカバーは色褪せていました。
町は施設を解体しないと決めていますが、今後の活用については、現在策定を進めている「文化財保護活用地域計画」の中で、東日本大震災と原子力災害の貴重な資料として、どのように活用するか定めることとしています。
(写真左)開放された熊町幼稚園の玄関。黄色の壁に緑の屋根が特徴的な園舎です。
(写真右)入り口の受付には写真が並べられ、来園者が家族や友達の姿を探していました。
(写真上)開放された熊町児童館。太平洋の波をイメージした塀のタイルが印象的です。
(写真下)元在籍児を出迎える元職員の渡部千恵子さん
熊町小学校・幼稚園・児童館で私物持ち出しの詳しい様子は、大熊町写真館に掲載しましたので、ぜひご覧ください。