大熊町(おおくままち)は、昭和29年(1954年)11月1日に大野村(おおのむら)と熊町村(くままちむら)が町村合併促進法により合併して、人口8,815人(男 4,310人、女 4,505人)、世帯数1,550戸、総面積78.51平方キロメートルの町として発足しました。
合併前の大野村は、明治22年4月1日町村制施行の時に、野上村(のがみむら)、大川原村(おおがわらむら)、下野上村(しものがみむら)の3村が合併したものであり、熊町村は熊川村(くまがわむら)、熊村(くまむら。明治13年7月15日に熊村と佐山村の2村合併)、夫沢村(おっとざわむら)、小良浜村(おらがはまむら)および小入野村(こいりのむら)の5村が合併してできたものです。
藩政時代は現代の双葉郡・双葉町一帯とともに相馬藩領内七郷のうち、南標葉郷(みなみしねはごう)陣屋の支配下に属し南は磐城に接し、戦国時代は国境陣地群を形成し、徳川期となって元和年間以降は熊駅に関門が置かれました。
平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災に起因する福島第一原子力発電所事故により、発電所の半径20キロメートル圏内に「警戒区域」が設定されたため、町全域が避難対象区域となりました。町役場の主要機能は約100キロメートル西に位置する会津若松市に移転を余儀なくされ、町民約11,000人も、会津若松市やいわき市をはじめ、全国各地に避難をしています。
平成24年(2012年)12月10日に、「警戒区域」が「帰還困難区域」・「居住制限区域」・「避難指示解除準備区域」に再編されました。町民の約95%が居住していた地域が「帰還困難区域」となったため、町としても「5年間は帰町しない」判断を行ったところです。
平成23年(2011年)3月に発生した東日本大震災および原子力災害により、現在、大熊町は全町民が避難しています。町では町内の現状および避難状況を見据えながら、復興を目指して復興計画の策定を行っています。
平成24年(2012年)12月に、「警戒区域」が「帰還困難区域」・「居住制限区域」・「避難指示解除準備区域」に再編され、町民の約96%が居住していた地域が「帰還困難区域」となったため、町としても「5年間は帰町しない」判断を行いました。
こうした状況の中、町では平成24年(2012年)9月に「第一次復興計画」を策定し、その後、町内の放射線量予測に基づく中長期的な町土の復旧・復興を示すため、平成26年(2014年)3月に「大熊町復興まちづくりビジョン」を公表し、町内の線量の推移や復興拠点整備などの町の考え方を示しました。
平成27年(2015年)3月には、「大熊町復興まちづくりビジョン」を踏まえつつ、“避難先での安定した生活”に資する生活再建支援策と、将来的な“帰町という選択肢の構築”の実現に向けた施策の両方を視野に入れた、「第二次復興計画」を策定しました。
復興計画とまちづくりビジョンについては、大熊町復興通信「復興の計画」に掲載しています。
いわき市より北に49キロメートル、宮城県仙台市より南に103キロメートルの地点にあり、福島県浜通りの中央部に位置します。
東は太平洋に面し、西は阿武隈山系の分水嶺をもって田村市と境し、南は富岡町、川内村に、北は浪江町、双葉町に隣接しています。
西高東低、海抜676メートルより3メートルと起伏に富み、東西15.4キロメートル、南北に6.7キロメートル、総面積の64%は山林で、うち約46%は国有林です。
阿武隈の山稜から町内の南部、中部、北部に3条の支脈が丘陵をなして太平洋に尽き、その間を熊川、小入野川、夫沢川の3小河川が東流して流域に耕地を造っています。
東日本型海洋性で夏は涼しく、冬は比較的温暖です。年間降水量は、1,200ミリ前後でほとんど積雪をみません。
78.71平方キロメートル
現在の人口と世帯数は、大熊町の避難状況のページをご覧ください。